第1部:環境コスト(外部不経済)とは何か

道路建設などの公共事業を進めるとき、必ずと言っていいほど「費用便益比(B/C)」という言葉が登場します。

「コストに対してこれだけのメリットがあるから、この道路は必要です」という、行政側の説明によく使われる指標です。

しかし、こういう疑問も当然発生します。

「道路を作るために削られる豊かな森や、そこに棲む生物の価値は、一体どこに計算されているのか?」

この記事では、公共事業における「環境コスト」——経済学でいう「外部不経済」が、現在の道路計画の中でどのように扱われているのか、その理論と現実を整理します。

さらにその上で、「弥富相生山線」という具体的な事例に当てはめて考えていきます。


そもそも「費用便益比(B/C)」とは?

日本の道路事業を評価する際、標準的に使われている費用便益比(B/C)は、シンプルな計算で成り立っています。

道路を作ることによる「便益(B: Benefit)」は、主に次の3つの要素を「円」に換算して合計したものです。

  • 走行時間短縮便益:目的地に早く着けるようになる価値
  • 走行経費減少便益:スムーズに走れることでガソリン代などが浮く価値
  • 交通事故減少便益:道が安全になって事故が減る価値

これを、道路の「事業費(C: Cost)」(建設費+維持管理費)で割ったものがB/Cです。

この値が「1より大きい(B/C > 1)」、つまり投資するお金よりも得られるメリットの方が大きいと判断された事業が、基本的には推進されてきました。

負の影響は組み込まれていない

お気づきの通り、この従来の計算式の中には、

  • 森林が消える損失
  • 騒音の増加
  • CO2の排出

といった環境への負の影響は、直接1円も組み込まれていません。

「利用者のプラス」は計算するのに、「社会や自然が被るマイナス」は計算に入っていない。

これが、長年議論されている大きな問題点です。


経済学が明らかにする「外部不経済」

このように、ある経済活動(車の移動や道路建設)のせいで、全く関係のない第三者(地域住民や未来の社会)が不利益を被ることを、経済学では「外部不経済」と呼びます。

例えば、住宅街の「抜け道」を走るドライバーを思い浮かべてみてください。

登場人物 得られるもの(利益) 負担するもの(損失)
ドライバー 移動時間の短縮(快適さ) なし
住宅街の住民 なし 騒音、振動、子供の通学リスク

ドライバーは「時間短縮」という利益を得ますが、その裏で住民は「住環境の悪化」というコストを一方的に支払わされています。

しかも、住民にその対価が補償されることは基本的にありません。

これが典型的な外部不経済の構図です。

本当のコストは?

本来、社会全体で見たときの「本当のコスト」は、以下のように計算されるべきだというのが、経済学の基本的な考え方です。

社会的コスト = 建設費 + 環境コスト(外部不経済)


環境を「円」に換算する4つのアプローチ

では、自然や環境の価値を、どうやってお金に換算すればよいのでしょうか。

これは実際のところ、かなり難しい問題です。

これまで社会や自然が被る負の影響が費用便益比(B/C)の計算に入っていなかったのは、正確に金額に換算することが難しかったからだといえます。

しかし、環境経済学の進歩によって、これらを定量化(金額に換算)する手法が登場しています。

① CO2(地球温暖化)の場合:炭素価格法

比較的計算しやすいのがCO2です。

新しい道路ができることで、年間5,000トンのCO2が増えると予測されたとします。

世界的な基準(炭素価格)を「1トン=1万円」と仮定すれば、「5,000トン×1万円=年間5,000万円の環境コスト」とはじき出すことができます。

ヨーロッパなどでは、これを実際に事業評価の足し引きに使うケースが増えています。

② 騒音や排ガス汚染の場合:ヘドニック価格法

道路ができることで、静かだった住宅街の騒音レベルや空気汚染が上がるとします。

この場合、「周辺の住宅価格(資産価値)がどれだけ下がるか」をベースに逆算します。

沿道の100世帯で、資産価値がそれぞれ100万円ずつ下がると統計的に予測されれば、「1億円の環境コスト」としてカウントする仕組みです。

③ 森林やホタルの場合:仮想評価法(CVM)や代替費用法

市場にまったく存在しない「ホタルの生息地」のような自然は、最も換算が難しい領域です。

ここでは主に2つのアプローチが使われます。

  1. 仮想評価法(CVM):住民に「このホタルの棲む緑地を守るためなら、年間いくら寄付(あるいは増税)してもいいですか?」と大規模なアンケートを行い、その市民の「支払い意思額」から価値を推定する
  2. 代替費用法:「もしこの自然を別の場所に人工的に再現・復元するとしたら、工事費や維持費はいくらかかるか」を計算し、それを現在の自然の価値とみなす

④ 多基準評価(MCA)

お金に換算しにくい価値も含めて、複数の観点から事業を評価する手法です。

MCAでは、複数の評価項目を並べて比較します。

例えば、道路を建設しない場合と比較するなら、下記のようになります。

評価項目 重み A案(道路建設) B案(現状維持)
渋滞改善 30% 90 20
交通安全 20% 80 50
環境保全 20% 30 90
防災性 15% 85 60
景観・文化 15% 40 90

MCAを用いると、比較対象が「時間短縮」「環境保全」「景観」のように異なっていても、同じ表で整理できるという利点があります。


実務の壁:なぜB/Cに組み込めないのか

理論的にはこれだけの手法があるのに、なぜ日本の実際の公共事業評価では、環境コストを費用便益比(B/C)の数式に組み込んでいません。

その理由は、計算結果の不確実性が大きい、という点です。

1日の交通量が「1万台」であることは、センサーや数理モデルである程度正確に予測できます。

しかし、「ホタルや緑地の価値」となると、研究者Aが計算したら10億円、研究者Bが計算したら100億円になる、といったブレが起こるためです。

現在の実務は「別枠」で評価

そのため、現在の日本の道路行政では、以下のような「分離型」の制度をとっています。

  • 経済性の評価:時間短縮など測定しやすいものだけB/Cを計算
  • 環境性の評価:環境影響評価(環境アセスメント)、生態系・景観評価などを、別枠で精査

つまり、費用便益比(B/C)という定量的な判断だけでなく、定性的・総合的な判断も必要とされています。

いずれにせよ、政策というのは、数字だけで語ることは決してできない、ということです。


第2部:「弥富相生山線」における外部不経済(環境コスト)

ここからは、以上の一般論を踏まえて、「弥富相生山線」という具体的な事例に当てはめて考えていきます。

繰り返しになりますが、日本の道路事業の標準的な費用便益分析(B/C)では、環境コストはほとんど直接組み込まれていません。

外部不経済(環境コスト)を正確に見積もることが技術的に難しいためで、環境影響はB/Cとは別に、環境アセスメントや政策判断で評価されることが一般的です。


外部不経済(環境コスト)となる主な7項目

「弥富相生山線」のような道路計画を考える場合、外部不経済(環境コスト)として議論される主な項目には、次の7つがあります。

それぞれについて解説します。

1. 住環境悪化と排気ガス汚染

新たな道路が整備されることで、周辺住宅地への入り込み交通や通過交通が増加する可能性があります。

その結果、騒音や振動、夜間の交通増加、生活道路の安全性低下といった問題が生じることがあります。

また、自動車交通の増加に伴い、排気ガスによる影響も懸念されます。

これらの影響をどう見積もるかは、「環境経済学」の領域になります。

2. CO2排出コスト

道路整備によって交通量そのものが増加した場合、自動車から排出されるCO2も増加する可能性があります。

近年は脱炭素社会の実現が重要な政策課題となっており、CO2排出による社会的コストを道路事業の評価に反映すべきだという議論も進んでいます。

3. 生態系・生物多様性への影響

道路建設による森林や緑地の分断は、生物の生息環境に大きな影響を与える可能性があります。

特にヒメボタルのような希少生物については、生息地の消失や分断によって個体群が維持できなくなるリスクがあります。

また、道路による森林の分断は、生物の移動経路を遮断し、生態系全体の回復力を低下させる要因にもなります。

4. 地下水涵養機能の低下

森林や土壌には、雨水を地中へ浸透させる働きがあります。

しかし、道路の舗装面が増えると、雨水が地中へ浸透しにくくなります。

弥富相生山線周辺では、八事層と呼ばれる地層が地下水の涵養機能を担っており、舗装面の増加によってその機能が低下する可能性が指摘されています。

5. 洪水・治水リスクの増大

森林には雨水を一時的に貯留し、流出を遅らせる「緑のダム」としての機能があります。

森林面積が減少し舗装面が増加すると、大雨時の流出量が増え、下流域の浸水リスクが高まる可能性があります。

仮に追加的な治水対策が必要になれば、その費用や被害は道路利用者ではなく周辺地域が負担することになり、これも外部不経済と考えられます。

6. ヒートアイランド現象への影響

森林には蒸散作用によって周辺気温を下げる効果があります。

また、夜間には冷気を生成し、周辺市街地へ供給する役割も果たしています。

緑地が減少して舗装面が増えると、地域の熱環境が悪化し、冷房需要の増加や熱中症リスクの上昇につながる可能性があります。

7. 景観・文化・地域アイデンティティの損失

自然環境の価値は、生態学的な価値だけではありません。

地域住民が長年親しんできた景観や、地域固有の歴史・文化的な意味を持つ空間が失われることもあります。

また、自分自身が利用しなくても「そこに豊かな自然が存在すること自体に価値がある」と考える人々にとっては、その存在価値が失われることになります。

たとえば「名古屋城の木造復元問題」も、典型的な地域アイデンティティの問題です。

現代の都市政策では、「地域アイデンティティは公共投資の正当な対象である」と考えられています。


長期的な評価期間・広域的な対象設定

弥富相生山線の場合、以上の7つの環境コスト(外部不経済)が考えられますが、ここで重要なポイントがあります。

これらのコストは個別には小さく見えても、

  • 長期間(30〜100年)
  • 広い地域
  • 多数の住民

にわたって累積すると、社会的コストは非常に大きくなり得ます。

評価期間は40年以上

道路事業の費用便益比(B/C)の評価期間は一般的に40年ですが、環境コストも同等かそれ以上の評価期間を用いるべきです。

また、「景観・文化・地域アイデンティティ」などの項目は、名古屋市民全体に関わる問題でもあり、その対象はきわめて広域化します。

たとえ、一つ一つの項目が「些細な問題」のように見えても、それらを軽視することはできません。


外部不経済はなぜ評価が難しいのか

こうした環境コストの多くは、市場価格が存在しません。

道路建設費や自動車の燃料代のように明確な価格がないため、金額換算には大きな不確実性が伴います。

学術的には、

  • アンケート調査による仮想評価法(CVM)
  • 住宅価格への影響を分析するヘドニック法
  • 多基準評価(MCA)

といった手法が存在しますが、評価結果は前提条件によって大きく変わるため、現時点では道路事業の費用便益比に直接組み込まれるケースは限定的です。


数字にならない価値を軽視してはならない

ここまで見てきたように、環境コスト(外部不経済)の多くは、「正確な金額」として一つの数字に定まるものではありません。

研究者によって推計が10倍以上違う、ということも珍しくない世界です。

しかし、それは「価値がない」ことや「無視してよい」ことを意味しません。

むしろ、数字にしにくいからこそ、住民の実感や定性的な意見そのものが、貴重な判断材料になる、というのが環境経済学の重要な教えでもあります。

仮想評価法(CVM)という手法自体、突き詰めれば「住民に率直に価値観を尋ねる」ことを制度化したものです。

「この緑地を守るためなら、これくらいの負担は受け入れられる」「この景観が失われることは、これくらい残念に感じる」という、一人ひとりの声そのものが、経済学的に見ても正当な評価データの一部となりえます。

数字だけでなく、実感を大切に

「専門的な数字を出せないから、意見を言う資格がない」ということでは、決してありません。

むしろ、「弥富相生山線ができたら、この地域はこう変わってしまうのではないか」という具体的な実感や懸念を、堂々と言葉にして発信すること自体が、外部不経済を可視化するための、正当かつ重要な手段なのです。


まとめ:これからの道路計画に必要なこと

かつての公共事業は、「車をいかに速く、たくさん流すか(時間短縮)」というシンプルな価値観で動いていました。

しかし現代の都市計画や交通工学は、単なる時間短縮だけでなく、数字で表すのが難しい「環境、健康、都市としての居心地の良さ」といった定性的な価値をどう取り入れるか、という総合評価の時代にシフトしています。

もはや、費用便益比(B/C)という単純な数字だけで語れる時代ではありません。

「弥富相生山線」問題も、こうした外部不経済(環境コスト)の問題に正面から向き合う必要があります。

道路計画の評価は、交通利便性の向上や渋滞緩和といった便益だけでなく、環境、生態系、防災、景観、住環境といった多様な価値を総合的に考える必要があります。

特に「弥富相生山線」のように、都市近郊の貴重な自然環境や住宅地に影響を与える可能性のある事業では、単純なB/Cの数値だけではなく、「どのような利益が生まれ、どのような負担を社会が負うのか」を幅広く検討し、十分な情報公開と住民合意のもとで判断することが求められます。

そしてその判断材料には、専門家の精緻な試算だけでなく、そこに暮らす市民一人ひとりの実感や声も、正当に含まれるべきなのです。